雪国

 匿名の批評は批評ではないのかもしれませんが、ここまでと同じように好き勝手に話していきたいと思います。今回は川端康成の雪国について少し考えていきます。

 

 

 川端康成の『雪国』は、島村という男と、彼が訪れた温泉町で出会った駒子という芸者とのやりとりを中心とした作品である。読んだことのある人が大半だろうし、また読んでなくても話の内容や冒頭の一文を耳にしたことはあるのではないだろうか。

 この作品でカギとなるもののひとつに、「鏡」がある。島村自体も駒子の鏡のようなものとして描かれており、雪国を読み取るうえで鏡が重要なキーワードであることは明らかである。

 では島村が鏡であるとして、そうすることで何を書こうとしたのだろうか。意味もなく島村を駒子の鏡にはしないだろう。

 私たちが小説を読む時、時には主人公となる登場人物に自分を重ねながら、基本的にはその世界を内からではなく、外から眺める形となる。しかし、現実はどうだろうか。実際に生活をしていて、自分の外から世界を眺めることは不可能だ。客観的に眺めるという言葉は存在するが、あくまで自己を「鏡」として世界を見ているに過ぎない。つまり、島村が鏡として世界を映すことで、私たち読者も、普通小説を読む時のような外部からの目線ではなく、内部からそのまま映る世界を眺めることができるのだ。

 鏡は何かに重点を置いて目の前の物を映したりなどしない。島村も同じである。ものごとに意味や価値の差をつけずにただ映る形そのままで見ようとする。だから徒労が反って純粋だと感じるのだ。何か意味や目的を必要としない行為は、変わらぬそのまま形状で鏡に映ることができる。先ほど意味もなく鏡にしないだろうと書いたが、意味を求めないために鏡なのだ。

 この物語は駒子を「映し」た物語である。だから駒子なしでは物語にならない。けれでもここで疑問が一つ浮かんでくる。駒子を中心とした物語だとするならば、なぜ物語の最初と最後を葉子に当てているのか。

 島村が鏡なのには、人は自分の映す世界しか見えないということと、映す世界だけ見ていたいという二つの理由が絡まっているのだと考えられる。私たちは自分の「鏡」に映る世界しかみえないが、同時に徒労ではない行為には、目の前には映らない鬱々とした意味が潜んでいる場合がある。隠れて見えないものは誰も見たくない。意味や目的、意図というものは汚れたものなのだ。

 だが、葉子はその穢れを超える存在なのではないだろうか。徒労を純粋なものとして尊んだ島村だったが、葉子の悲しいほど美しい声からは意味が溢れ出しているのに、どうしてか気になってしまう。つまり葉子は意思や意図がありながら純粋なのだ。鏡を馬鹿にするかのように「存在している」葉子。『雪国』は俗っぽさを代表した駒子と、鏡の島村、そして徒労を上回る純粋としての葉子によって構成された物語ではないだろうか。